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この人に聴く 〜仙川の昔と今、そして明日〜 <第2回>

仙川商店街を、つくり育てて

稲川 昭三郎さん(いながわ・しょうざぶろう/仙川商店街協同組合 元理事長)

仙川の記憶をたどる連載「この人に聴く」。第2回は、仙川商店街協同組合の元理事長・稲川昭三郎さん(85)。戦時中に一家で仙川へ移り住み、米屋から洋品店「ブティック伊奈河」へ。やがて商店街を調布市で初めての協同組合へと導き、駐車場や「おらほ祭り」を育ててきた。手づくりの仙川地図と古い写真の束を前に、街の記憶をよどみなく語ってくれた。取材は2026年9月29日、Share Nest 仙川で行った。

アルバムを手に語る稲川昭三郎さん(イラスト)
手づくりの写真アルバムを広げ、街の記憶を語る稲川昭三郎さん。Share Nest 仙川にて(写真をもとにイラスト化)。

稲川昭三郎さんがこの仙川にやってきたのは、戦争が激しさを増していた頃だった。両親は新潟で米をつくっていたが、昭和十八年、親戚を頼って一家で疎開する。当時三歳。大八車に積まれた引っ越し荷物の上に乗せられていたというが、本人に記憶はない。やがて一家は仙川へ移り住み、米屋を始めた。「今のダイソーがあるあたり」──そこが、稲川さんと仙川商店街の長い付き合いの始まりだった。

米屋の少年が、街に立つまで

五人きょうだいだったが、上の二人は早くに世を去っている。米屋を親と切り盛りしていた長男は、二十歳のときに突然この世を去った。稲川さんが神代高校に入った十六歳の年のことだ。「前の日まで、何ともなかったんです」。家業を継ぐ者がいなくなり、別の道を考えていた稲川さんは、急きょ米屋を継ぐことになる。十六歳から三十歳まで米を担ぎ、昼は働き、夜は定時制高校へ通った。三十歳のとき、子ども服や洋品を扱うブティック「伊奈河」へと商売を替え、以来四十六年。店を畳んだのは八、九年前のことで、いまは建物を貸し、仕事からは退いている。

戦争と、甲州街道の記憶

昭和二十年三月十日の東京大空襲を、稲川さんは仙川で迎えた。当時五歳。「空が真っ赤に焼けていたのを覚えています」。仙川にも焼夷弾が落ち、鍋屋さんのあたりに被害が出た。柴崎には米軍機が墜落し、地元の人々が対峙したという話も、後年まで語り継がれた。甲州街道沿いには、家康が江戸を開くにあたり一里ごとに築いた一里塚の名残が残る。日本橋から数えて、仙川はその途上にあたる。

終戦後は、立川や横田、調布の基地へ向かう米軍のジープが甲州街道を頻繁に行き交った。「手を振ると、チョコレートやガムを投げてくれるんです。子どもにはそれが楽しみでね」。教科書で読んだ光景が、この街の日常だった。いっぽうで、進駐にまつわる影の記憶もある。稲川さんは、光も影も、見たままに淡々と語る。

ぬかるみを埋めて ── 仙川商店街のはじまり

昭和29年当時の仙川商店街の地図
昭和29年当時の仙川商店街の店の並び。中ほどに「稲川米店」も見える。
出典:せんがわ21 No.14(岡部氏の原図に編集部調べを加筆)

仙川商店街ができたのは、昭和二十五年(一九五〇年)、わずか二十七店舗から。稲川さんの一家はそれより十年ほど前からこの地におり、その頃は六、七軒しか店がなかったという。当時の商店街の道は舗装もなく、雨が降ればドロドロにぬかるんだ。「島忠の前が和光堂という会社で、石炭を燃やしていた。その燃え殻をリアカーでもらってきて、道に埋めるんです」。買い物客が歩きやすいようにと、少年だった稲川さんも後押しを手伝った。

当時の姿のまま商いを続ける店は、いまでは数えるほどしかない。「一番古いのは神代書店。いまも書店として、家族が続けています」。多くは二代目までで店を継ぎ、三代目の頃には貸店舗になって、外から来た人の店が増えた。街のかたちは、半世紀のあいだに大きく移り変わった。

そうして仙川がここまで発展を続けてこられたのも、地主さんたちが目先の損得にとらわれず、街全体の発展を考えて協力してくれたからこそだ、と稲川さんは振り返る。

商店街を「協同組合」に ── 三十七歳の会長

昔の仙川商店街(北側入口から)
商店街の北側入口から(1959年頃)。
出典:せんがわ21

仙川商店街は、昭和二十五年に「仙川商栄会(栄える会)」として生まれ、一九七八年(昭和五十三年)に「仙川商店街協同組合」へと法人化した。その旗振り役が、当時三十七歳の稲川さんだった。「会長なんて、本当は嫌で断っていた」。それでも周囲に推され会長を引き受けると、これからの商店街には協同組合化こそ必要だと考えた。当時、調布市内にはまだ商店街の協同組合はひとつもなかった。

商工会の担当者を交えて一年間、夜ごと勉強会を重ねた。法人化すれば、駐車場整備に国の資金の援助を受けられる。その代わり、理事には印鑑証明を添えた登録と、相応の責任が生じる。メリットもデメリットも会員に包み隠さず説明し、臨時総会では地区を六つに分けて集まってもらい、賛同を得ていった。こうして発足した協同組合の初代理事長は斉藤宇之吉さん。稲川さん自身は、副理事長などを経て、のちに三代目の理事長を務めることになる。「やろうとする側がいくら熱心でも、みんなが賛同してくれなければ物事は成功しない」。前向きな会員たちに恵まれたことが、何よりだったと振り返る。

仙川商店街の完成記念セール
商店街の完成記念セールでにぎわう仙川。アーチと風船のもとを、関係者が歩く。
写真提供:稲川昭三郎さん

行政との折衝には、苦労も逸話もある。書類を整えて都の窓口へ持って行っても、なかなかすんなりとは進まない。あるとき、都議会議員に同行を頼んで一緒に出向くと、手続きは一発で通った。「理不尽なことが、一発で片づく。政治を利用するというのではなく、情熱をもってやろうとしていることを前に進めるために、縁を役立ててもらう」。若い頃の稲川さんは、安保に反対してデモに加わったこともある“反権力”の青年だった。地元で商売をし、消防団や町の役も担ううちに、立場の違う人々とも手を携えるようになる。その葛藤を乗り越えるのは、二十代の頃には「本当に辛かった」という。

駐車場を、街の力に

商店街が運営する仙川駅前の駐車場
商店街が運営する駅前の駐車場(現在)。「これからは駐車場が要る」と、早くから整備を進めた。

「これからの商店街には、絶対に駐車場が要る」。稲川さんはそう見込んで、地主の伊藤さんの土地を借り受け、共同の駐車場をつくった。のちに相続を機に、その土地を協同組合が買い取り、いまも街の中心にある約五百坪の駐車場となっている。「毎年ちゃんと決算に出てくる、組合の堂々たる資産です」。その収益は返済に充て、街の活動にも回してきた。

市の商店街振興予算を引き出したこともある。「役所は、こちらが声を出せば振り向いてくれる。でも要求しなければ、向こうからは来ない」。街が発展すれば、それはやがて税として市に返ってくる──その信念のもとに動いてきた。「決して裏の金をもらうわけじゃない。予算として組まれているものを、街のために回してもらうんです」。

大型店と共存する街

昭和四十年代、仙川にも大型店が相次いで進出した。西友(当時)が昭和四十二年、丸正が翌年、京王ストアが昭和四十四年(いまのクイーンズ伊勢丹の前身)。ふつう商店街は大型店の出店に反対するものだ。だが仙川の先輩・長老たちは、反対運動をせず、共存の道を選んだ。「大型店に人が集まる力を、逆に商店街にも取り込もうという考えだった」。稲川さんは、その先輩たちの度量に、いまも仙川という街の気風を見ている。

「おらほ祭り」の五十八年

おらほ祭りの阿波おどりおらほ祭りのサンバ
盆踊りから阿波おどり(上)、そしてサンバ(下)へ。祭りは形を変えて受け継がれてきた。
写真提供:稲川昭三郎さん

夏の風物詩「おらほ祭り」の原型は、青年部が始めた盆踊りだった。会場は、いまのクイーンズ伊勢丹の前にある公園──当時は川原さんの駐車場で、先代が「街の発展のためなら」と快く貸してくれた。盆踊りはやがて阿波おどりになり、さらに浅草の名門チームに刺激を受けてサンバを取り入れ、そして現在の「おらほ祭り」へと受け継がれてきた。催しとしては、実に五十八年続いている。

「昔は、商店街の青年部も婦人部も、町のおばちゃんも、銀行員も、キユーピーのような企業も、みんな浴衣で参加してくれた」。舞台も飾りも、業者に頼らず手づくりだった。一つの祭りをみんなで作り上げることそのものが、商店街という大きな輪のなかのコミュニケーションだった。

掘り起こす、街の記憶 ── 地図を片手に

稲川さんは、盟友と二人で街を歩いて撮りためた手づくりの「仙川地図」と、古い写真の束を広げ、番号を追って一区画ずつ街の記憶を語ってくれた。以下は、その語りから拾ったいくつかの断片である。

稲川さん手づくりの仙川地図
稲川さんが仲間と歩いてつくった手づくりの「仙川地図」。番号に沿って、街の記憶が語られた。
作図・写真提供:稲川昭三郎さん

丸池と「仙川」の名の由来

丸池公園
湧き水をたたえる丸池公園。
写真提供:稲川昭三郎さん

勝渕神社の前にある丸池のあたりには、かつて清らかな湧き水が「ポンポン」と噴き出していた。「小学校の頃、ここでサワガニをよく捕りました」。水が湧き出る釜がいくつもある──「千の釜」が転じて「仙川」になったと、地元では伝えられているという。

勝渕神社と春清寺 ── 柴田勝家の血脈

勝渕神社春清寺の三重塔
上=勝渕神社、下=春清寺(三重塔)。
写真提供:稲川昭三郎さん

勝渕神社と春清寺には、戦国武将・柴田勝家ゆかりの歴史が眠る。賤ヶ岳の戦い(一五八三年)に敗れた勝家は自刃するが、孫の勝重に兜を持たせて逃がした。勝重はのちに徳川の世で二千石を賜り、関ヶ原の戦功で加増され二千五百石に。御殿山(いまの三鷹市新川のあたり。地元では今も「御殿山」と呼ぶ)に館を構えた。春清寺には柴田家の由緒書や和歌が奉納され、いまも法要が続く。「春清寺の先代の住職は、私の中学の先生でね」。軍隊上がりの厳しい先生だったと、稲川さんは懐かしむ。

白百合女子大学 ── もとは薬草園

白百合女子大学の正門
白百合女子大学の正門(地図番号4)。
写真提供:稲川昭三郎さん

白百合女子大学の敷地は、もとは津村順天堂の薬草園(生薬を育てる園)だった。子どもの頃の稲川さんには、一面の薬草園の記憶がある。のちに人手を経て、いまの白百合女子大学となった。

八幡神社の秋祭り

八幡神社の参道
八幡神社の参道。
写真提供:稲川昭三郎さん

仙川の氏神・八幡神社の祭りは、毎年九月末。宵宮と本宮の日は参道に露店がずらりと並び、子どもたちの一番の楽しみだった。三鷹・北野と仙川、二つの村が守る神社で、それぞれの大太鼓を、仲休めのときに打ち合ったという。「境内の太い杉は、私たちの親の代に伐って、社殿を建て替える材にしたんです。いまある木は、その時に植えた苗ですよ」。

弁天橋の清流

弁天橋と仙川
弁天橋のたもと。春は菜の花が川沿いを彩る。
写真提供:稲川昭三郎さん

仙川(川)はかつて清流で、うなぎやザリガニがとれた。「笹の筒を仕掛けておくと、朝にはうなぎがかかっている」。日照りの年には、農家の男たちが川で水を掛け合い、「シャンゲイ、シャンゲイ」と唱えて雨乞いをし、その足で大山(神奈川)へ参ったという。橋のたもとには、精米のための水車小屋もあった。

万平製作所といなげや

萬平製作所の跡地
萬平製作所の跡地(地図番号9)。
写真提供:稲川昭三郎さん

いま「いなげや」のある場所は、かつて軍需のベアリングなどを手がけた金属工場だった。その隣の萬平製作所は、釘やビスをつくる会社で、「釘萬」で知られた。社長は根岸さんといい、下の昭和十六年頃の地図で、仙川駅のそばに見える「根岸」が、その邸宅にあたる。社長の邸宅は商店街の一角にあり、稲川家は最初、その屋敷地を借りて米屋を始めたのだという。譲り受けた倉庫の廃材を組み立てた、いわばバラックのような建物だったと、稲川さんは懐かしむ。「写真を撮っておけばよかったなあ」。

昭和16年頃の仙川の地図(根岸邸が見える)
昭和16年頃の仙川。仙川駅のそばに「根岸」(=萬平製作所社長の邸宅)、府立第十五高女(現・都立神代)、山水高等女学校、和光堂、神代書店などが見える。
出典:せんがわ21 No.14

昌翁寺 ── 家康の家臣の墓と、そろばん塾

昌翁寺の山門
天台宗・昌翁寺の山門(地図番号10)。
写真提供:稲川昭三郎さん

昌翁寺は、家康の家臣・飯高主水の墓を祀って始まったと伝わる天台宗の寺。稲川さんは子どもの頃、この寺のそろばん塾に通った。「お寺が塾を開いて、町の子に教えてくれた。社会奉仕みたいなものでね」。戦時中は学童疎開の子らを受け入れ、村人が野菜や米を差し入れたという。

一里塚とセブンイレブンの斉藤家 ── “祝いの赤飯”

仙川一里塚跡の記念碑
「仙川一里塚跡」の碑。いまはセブンイレブンの脇に立つ。

甲州街道沿いのこの一角には、一里塚の名残がある。いまのセブンイレブンの斉藤家では、忘れられない話が伝わる。昭和二十年三月、その家の井戸のあたりに焼夷弾が落ちた。当時、母のお腹の中にいた子は無事で、翌月に生まれた。敗戦の年でありながら、斉藤家ではいまも、その子の生まれた昭和二十年を「祝い」として赤飯を炊くのだという。

桐朋学園と和光堂

桐朋学園の前身は、戦前に設けられた学校で、戦後に引き継がれて現在の桐朋学園となった。のちに世界的指揮者となる小澤征爾も、ここで学んでいる。近くの和光堂は、かつてボンボン飴やキャンディーをつくる会社で、本館の二階はダンスパーティーも開かれるおしゃれなホールだった。その和光堂があったのが、いまの島忠(ホームセンター)のある場所だ。「あの石炭の燃え殻を、商店街の道に埋めたんです」──街のぬかるみを埋めた燃え殻は、この和光堂から出たものだった。

島忠(かつて和光堂があった場所)桐朋学園
左=いまの島忠(かつて和光堂があった場所/地図番号14)、右=桐朋学園(地図番号15)。
写真提供:稲川昭三郎さん

武者小路実篤の姿

実篤公園・記念館
実篤公園・記念館。写真提供:稲川昭三郎さん

武者小路実篤は昭和三十年に牟礼から移り住んだ。米屋の店先から、稲川さんはその姿をよく見かけたという。下駄に竹の杖をつき、せっかちに歩く。電車では席に座り、本を片手に、しきりに周りを見回していた。「創作のタイプ(人物像)を探していたのかもしれませんね」。実篤公園の土地は、夫人・安子さんの意向で調布市に寄贈された。実篤が描いた絵は、いまも神代書店や聖光園、田辺さんなど、商店街のいくつかの家に大切に飾られている。

キユーピー ── アルミ工場から、戦後初のマヨネーズ工場へ

キユーピー仙川(現・仙川キユーポート)
キユーピー仙川(現・仙川キユーポート。地図番号21)。
写真提供:稲川昭三郎さん

いまのキユーピー仙川工場(現・仙川キユーポート)のある場所は、戦時中はアルミニウム工場で、航空機の部品を製造していた。近くの桐朋学園(当時の女学校)の生徒も、ここへ勤労動員されたという。戦後、食糧事情が改善してマヨネーズの需要が高まると、キユーピーがこの地に昭和二十六年(一九五一年)、戦後初のマヨネーズ工場を建てた。従業員も多く、街とともに歩んできた大きな存在で、「おらほ祭り」にも社員がそろって参加してくれた。

仙川駅と「紅梅キャラメル」

京王線が開通したのは大正元年(一九一二年)、仙川駅も同じ頃に生まれた。当初の電車は板敷きで、扉は手で開ける。線路はやがて掘割式になった。駅前には人力車のおじいさんがいて、慈生会病院へ通う患者を運んだ。そして子どもたちの記憶に残るのが、駅前の駄菓子屋で買った「紅梅キャラメル」。箱には読売巨人軍の選手──川上哲治や水原監督らのブロマイドが入っていて、男の子はそれを集めたさに、みんな夢中で買った。「いまの子が野球カードを集めるのと、同じですよ」。

畑と「こいだめ」のにおい

甲州街道の南いったいは、かつて見わたすかぎりの畑だった。三多摩の野菜は新鮮で質が良く、都内でたいそう人気があった。農家はリヤカーに野菜を積んで都内へ売りに行き、帰りには、都内の家々の便所の下肥(しもごえ)を肥桶に汲んで持ち帰った。畑の脇や屋敷内の「こいだめ(肥溜め)」で幾月も発酵させ、貴重な肥料にする。「素手ですよ。臭くないのかって? もちろん臭いです」と稲川さんは笑う。だが化学肥料などなかった時代、それが作物を育てる唯一の元手だった。稲川さん自身も、高校に上がる頃まで、その仕事を手伝ったという。

明日への思い、そして道楽

「仙川は文化と芸術の街」と言われる。ならばこそ、その名にふさわしい文化政策を、と稲川さんは願う。かつて調布市の文化懇談会に加わり、報告書をまとめたこともある。そして何より、あの祭りの日のような街ぐるみの連帯を、これからの仙川にも受け継ぎ、育てていってほしいと願っている。

その稲川さん自身が、いまも新しいことに挑み続けている。歌が好きで、コーラスではハイバリトンを担う。七十五歳からピアノを始め、いまはショパンのノクターンに取り組む。「発表会があるから、やめられなくてね」。さらに驚くことに、取材の前の週からサックスを習い始めたという。「このおじいさんでも大丈夫かと聞いたら、音が出るから大丈夫ですと言われてね」。八十六歳を前に、その好奇心はいささかも衰えない。

稲川 昭三郎(いながわ・しょうざぶろう)さん

1940年(昭和15年)11月、新潟出身の両親のもとに生まれ、戦時中に一家で仙川へ移り住む。若くして家業の米店を継ぎ、30歳で洋品店「ブティック伊奈河」を開業、46年にわたり営んだ。仙川商栄会の会長を経て、1978年(昭和53年)の仙川商店街協同組合の設立を主導し、調布市で初めての商店街協同組合として法人化。駐車場の整備や「おらほ祭り」の育成など、半世紀にわたり仙川のまちづくりに携わってきた。趣味は音楽で、コーラス(ハイバリトン)のほか、75歳からピアノ、86歳を前にサックスにも挑戦している。

監修:せんがわまちニティ情報センター/青野 友太郎

取材・編集:株式会社SHARE NEST(NEST Memory)

制作協力:生成AI(Claude)

※制作方法:インタビュー音源のAIによる文字起こしと、生成AIによる構成案をもとに、編集部(株式会社SHARE NEST)が編集を行いました。掲載にあたっては、せんがわまちニティ情報センターの監修と、ご本人の確認をいただいています。

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