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この人に聴く 〜仙川の昔と今、そして明日〜 <第1回>

掘れば土器が出る、この街で

村野 坦さん(むらの・ひろし/元・朝日新聞政治記者)

仙川の記憶をたどる連載「この人に聴く」。第1回は、若葉町に四十余年を暮らしてきた元・新聞記者、村野坦さん(87)。政治記者として時代を追った眼は、この街の古層と、これからに、何を見ているのか。取材は2026年9月1日、Share Nest 仙川で行った。

インタビューに答える村野坦さん
Share Nest 仙川の会議室で。手元の資料を前に、街の歴史をよどみなく語ってくれた。

村野坦さんがこの仙川・若葉町に越してきたのは、1980年(昭和55年)のことだ。きっかけは、長女が桐朋女子中学校に入学したこと。横浜からの通学は幼い娘には遠すぎた。「まさに孟母三遷ですね」と笑う。個性を尊重する自由な女子教育に惹かれ、家族はこの街へ移り住んだ。武者小路実篤記念館の下手、記念公園を望む一角である。

ところが、家を買って半年もしないうちに札幌への転勤辞令が下る。「“家を買うと転勤になる”という社内のジンクス通りでした」。当時、村野さんは朝日新聞の政治記者。一時、単身赴任で過ごし、戻ってからは、ずっとこの若葉町一丁目に暮らしている。以来、四十余年。新聞社を60歳で定年後は大学の非常勤講師や日本新聞協会の勤務を経て、70歳で完全にフリーになった。「これは地元に少しは貢献しなければ、と思いましてね」。若葉町自治会報の編集を約十年、編集長兼記者として担ったのが、この街を深く知る入り口になった。

掘れば土器が出る ── 古い土地の記憶

調べるほどに、仙川が「とても古い土地」であることが見えてきた。多摩川がつくった武蔵野台地の外れ、国分寺崖線の崖と谷が入り組むこの一帯には、古代から人が住み、地中には縄文から中世にかけての遺跡が驚くほど多く眠っている。調布市内に約65カ所あるという遺跡は、とりわけこの地域に集中している。東部公民館の隣にマンションを建てようとすれば遺跡が出て工事が止まり、教育委員会の調査が入る。「二、三メートルも掘れば、土器が出てくるんですよ」。

武者小路実篤が70歳でこの地に居を構えた動機も、「水が出ること、庭から土器が出ること、ツクシが生えること」の三つだったと村野さんは語る。掘れば土器が出るほどに、この街は古い。だが不思議なことに、ここが合戦の舞台になったわけでも、城下だったわけでもない。穏やかな農村であり、生活者の居住地として、静かに時を重ねてきた土地なのである。

街を変えた、いくつかの出来事

かつての滝坂(昭和20年頃)
かつての滝坂(昭和20年頃)。急な坂の道と、坂沿いの木立。
出典:せんがわ21 No.18(2001年)

それでも、この地を大きく動かした出来事はいくつかある。ひとつは甲州街道。江戸の五街道のひとつで、家康の“逃走路”という説もある軍事道路。仙川は日本橋から五里(約20キロ)の地点にあたり、三丁目には一里塚があった。滝坂のあたりは伝馬(馬の乗り換え場)で、急な坂の荷を押し上げる専門職までいた。子どものアルバイトにもなったというから、暮らしと地続きの歴史である。

仙川寺町通り(1978年)
仙川寺町通り(1978年)。震災後、東京から移ってきた寺院が並ぶ。
出典:せんがわ21 No.18(2001年)

もうひとつが関東大震災。取材したこの日は、ちょうど震災から103年目にあたっていた。都心が壊滅する中、この地域は「土壁にひびが入る程度」で済んだ。だが流言が広がり、明照院付近に「怪物が出た」という噂が立ち、自警団が辻々で通行人を誰何したという記録も残る。震災後の帝都復興で東京から寺と墓地が移され、いまの桐朋学園あたりに浄土真宗本願寺派の寺が六軒、墓ごと移ってきた(仙川寺町)。東京からの墓参客が増え、この街が“東京圏”に顔を出すきっかけになった、と村野さんは見る。

そして京王線の開通だ。大正2年(1913年)、仙川駅も同時に生まれた。当初は路面電車のような一両きりの車両が、調布から笹塚までを一時間もかけて走ったという。電車が通う前に電気(電灯)が引かれ、ランプの暮らしから一気に近代へ──「当時としては、たいへん早いことでした」。さらに昭和15年前後には、いまの都立神代高校(前身は第十五高等女学校で、調布市内で最も古い都立高校)や、桐朋学園が相次いで生まれ、京王線で学校へ通う、学びの街の芽が蒔かれていく。

拡げられない駅、坂の多い街

若葉小学校北の階段道(1960年)
若葉小学校の北にあった階段道(1960年)。崖線の起伏を伝える。
出典:せんがわ21 No.18(2001年)

今、仙川駅は一日およそ七万人が使う、京王沿線でも大きな駅だ。ところが駅そのものは小さい。上下線が一本ずつしかすれ違えない。台地が崖となって落ち込むその底を、線路が掘割式に通っているためで、地形が駅の拡張を阻んでいる。「これはもう、宿命的なことなんですね」。坂もまた、この街の性格を決めている。松原通りから京王線の路線までの間に下から上がる坂道は八本。年を取ると、その道の途中に腰かける場所がないことが、身にこたえる。

入間町から若葉町へ、そして実篤

武者小路実篤『仙川の家』室内より庭を望む(1978年)
実篤の「仙川の家」、室内から庭を望む(1978年)。
出典:せんがわ21 創刊号(1978年)

昭和30年(1955年)の町村合併で調布市が生まれたとき、この地域は「入間町」と呼ばれていた。合併に伴って「若葉町」という新しい町名になったのだが、ここに小さなエピソードがある。同じ年の暮れ、三鷹から実篤がこの地へ移り住んだ際、「入間町」という名を大いに喜んだ。埼玉県入間郡には、実篤が肝入りで築いた「新しき村」がある。同じ「入間」の字に奇縁を感じたのだ。だが町名はほどなく若葉町へ。「ありきたりの名になった、と残念がっていますね」。実篤はここで70歳から晩年の20年を過ごし、公園を遺し、この街を「芸術と文化の街」と呼ばれる名所に変えていった。

自然発生の街、そして世代交代

仙川商店街の組合ができたのは昭和25年、当時の加盟はわずか27店だった。いまは加盟70〜80店ほど。個人商店が減り、全国チェーンが増えた。未加盟の店も数多い。区画整理はほとんど行われず、農道がそのまま舗装された「自然発生的な街」である。成城のように計画的につくられた街ではない分、どこか掴みどころがない。急激な地価上昇と高度成長で住宅が建ち、新住民が増えてベッドタウン化が進んだ。そしていま、その街は三代目への世代交代を迎えている。

文化と教育の街、けれど「核」がない

白百合女子大学、NTT中央研修センタ、桐朋学園──文化と教育の資産は、調布のなかでも際立っている。だからこそ若い世代が多く、人口も子どもも増えている数少ない地域だ。「新宿・渋谷まで20分の“都心に近い田舎”」として人気も高い。けれど村野さんは、この街の弱さも見つめている。大きな神社も、広場も、街を挙げての祭りもない。「小さな芽はたくさんあるのに、それが面に広がらない」。せんがわ劇場があり、桐朋の音楽があり、実篤が遺した公園があり、謎解きを仕掛ける若者も、本屋をつくろうとする人もいる。だが、それらを束ねる“核”がない。デジタル化とAIが進み、店ではレジ越しに言葉も交わさず、家の中でもそれぞれが画面を見る──人と人の関係がますます薄れていくいまだからこそ、それをつなぐ何かが街にあれば、と村野さんは言う。

欲しいのは、人がつながる「場」

村野さんが街に望むのは、いつも「場」である。ひとつは祭り。夏の暑い盛りの「おらほ祭り」(“おらの方”=我らの街、の意)を、良い季節に街ぐるみの催しへと広げ、町内歌合戦のように世代を超えて騒げる日があってもいい。そしてもうひとつが「仲良しベンチ」。坂の街のあちこちに、ひと息つけるベンチを。「ちょっと腰かけると、天気の話や子どもの話から、つながりが生まれるんです」。再開発で座る場所が増えた調布駅前を引き合いに、人を拒まない街の設えを、と村野さんは訴える。桐朋学園には音響の良いホールがあり、プロ級の学生演奏が市民に開かれているのに、申し込みが分かりにくく人が集まらない。「もったいないですよ」──そんな“惜しい場”にも、村野さんの目はよく届く。

八十七歳の、学びと体

多忙な記者時代、記事審査で座りっぱなしだった頃から続けているのがジム通いだ。いまも月に十回以上、体を動かす。70歳で完全にフリーになってからは、「もう一度、生徒になりたい」と、飯田橋の中国語学校へ通い始めた。かれこれ14年。中国語だけでなく、その歴史や日本とのつながりを学ぶ。「漢字でやりとりできるのは、世界で中国と日本だけ。政府同士の仲が悪くても、長い交流があることがよくわかります」。いまは作文に取り組む。「これがまた、ボケ防止にいいんです」と笑う。日本記者クラブの会見をオンラインで追う日もある。体と頭の健康を、自ら耕し続けている。

動いて、街を変える

村野さんは、ただ眺めているだけの人ではない。自宅近くの寄付地に立つ古木を、市が「道路拡張で伐採する」と告げたとき、住民に呼びかけて反対運動を起こした。木にリボンを結んでもらう運動には、通学の子どもたちまで加わり、伐採は中止に。荒れていたその一角に花壇をつくるよう市に求め、「ふれあいの道づくり事業」で実現させた。以来14年、近隣で当番を決めて世話を続けている。「こちらが動いて、市を動かすんです」。街への小さな一歩を、村野さんは自分の手で踏み出している。

また、聞いてみたい

天下の朝日で政治を追い続けた記者である。いまの政治をどう見ているのか。新聞からSNSへと移り変わる情報の海を、私たちはどう泳げばいいのか──話は尽きず、この日は時間切れとなった。政治とメディアをめぐる村野さんの眼を、いつかまた、じっくり聴いてみたい。仙川という街の“明日”を考えるヒントは、きっとその先にもある。

村野 坦(むらの・ひろし)さん

1939年6月、静岡市生まれ。横浜市を経て、1980年(昭和55年)より調布市若葉町に在住。朝日新聞政治部記者として活躍し、定年後は大学非常勤講師や日本新聞協会勤務を経てフリーに。若葉町自治会報の編集や市民花壇の運営など、地域活動にも携わる。

監修:せんがわまちニティ情報センター/青野 友太郎

取材・編集:株式会社SHARE NEST(NEST Memory)

制作協力:生成AI(Claude)

※制作方法:インタビュー音源のAIによる文字起こしと、生成AIによる構成案をもとに、編集部(株式会社SHARE NEST)が編集を行いました。